11年前と同じ「3.11の金曜日」に当時を振り返る

今日であの東日本大震災から11年が経過しました。

奇しくも今日は3.11の金曜日。

11年前のあの日も金曜日でした。

今日は東日本大震災の当日について振り返ってみようと思います。

今でも鮮明に覚えています。

目次

地震発生時は学校法人にて勤務

東日本大震災が発生した11年前は、税理士の業界にはおらず、学校法人に勤務していました。

当時私がいた部署は建物の2階。

14時46分、最初は縦揺れから始まり、立っていられない程の大きな揺れが数分間続いた。

机や椅子はぐちゃぐちゃにぶつかり合い、戸棚もすべて倒され書類が散乱。

運良く椅子には座っていなかったのでぶつかり合う机には巻き込まれなかった。

とりあえず揺れが落ち着くまで床にひざまずき耐える。

揺れが一度収まり、事務所内を呆然と眺める。

地震だということはすぐにわかったが、どうすれば良いのか頭が真っ白だった。

上長と一緒にとりあえず外に出ようということで外に出たが、あの日の外は雪がチラつくほどの寒さ。

上着を取りたいがロッカーが総倒れで上着が取れない。

仕方なく上着を諦めて外へ。

教職員や学生が外に集合し、閉じ込められている人がいないかみんなで確認。

そうこうしているうちに余震が何度も襲ってきた。

寒過ぎて上着を取りに戻りたいが戻ってはいけないと指示があり諦める。

寒さに耐えながら約3時間。

ようやく解散の合図があり、帰れる者は帰って良し。

月曜日も出勤できない者は連絡を入れたうえで出勤しなくて良し。

運良く車通勤だった私は、公共交通機関を利用して通勤していた同僚を乗せて帰宅の途へ。

車内のナビでTVニュースが流し、津波がきたことを初めて知りました。

その時はまだ家族が流されたとは知らず、とりあえず帰宅することだけを考えていた。

道路は当然のことながら大渋滞。

同僚をやっとのことで家まで送り届け、私は自分のマンションではなく実家へ向かいました。

途中に地震の影響でマンホールが突き出している場所も数カ所あった。

信号機も動いていないので、当然ながらみんなノロノロ運転。

通常40分ほどで着く実家まで、結局4時間ほどかかり到着。

街の街頭はすべて消えていて真っ暗闇に車のヘッドライトだけが灯りを灯していた。

実家には誰もおらず、避難所となっている小中学校へ向かった。

そこで運良く入口で両親を発見。

体育館で寝泊まりできるようだったが、夜は冷えるので一応エアコンが効く車中泊を選択した。

それでもエアコンを切ると寒すぎて眠れない。

結果、ほとんど眠れない夜を過ごした。

翌日は家族を探しに歩き回る

翌朝から私と父は市内に住む津波の被害に逢った家族を探しに行った。

ヘドロでぐちゃぐちゃだろうと予測して長靴で出かけた。

まずは避難所となっている小中学校を歩き回る。

あれほどの距離を長靴で歩いたことは後にも先にもない。

父を二人で市内の避難所はすべて回った。

探している家族はいない。

結局、家族が住んでいた場所は自衛隊に封鎖されて入ることはできなかった。

津波が襲ってきたため、道路は陥没し、海水も残ったままだったので、入れたとしても途中で足止めを食らったことでしょう。

自衛隊の方々から危険だから入らないように指示を受けた。

正直、この時は最悪の事態が頭が過ぎったよね。

夕方まで歩き回り、安否確認ができないまま自分たちが避難している学校へ戻った。

避難所に戻ると、探していた家族の一人の顔が目に入った。

どうやらお互いに探していたようだった。

話を聞くと、一度津波に流されたが運良く助かったようだった。

津波に流されながらも、2階建ての家屋の2階の窓からかろうじて難を逃れたそう。

つまり、1階部分の天上まで津波が来たってことです。

私はその場にはいなかったのでその恐怖は知りません。

動画でしか知らない津波の状況ですが、PTSDになってもおかしくない状況だろうと容易に想像できます。

結局、津波に襲われた日の翌朝に自衛隊のボートに救助され、今は自衛隊駐屯地に避難しているとのことだった。

すぐに車で迎えに向かったが、駐屯地までの道がまた封鎖されていた。

だいぶ遠回りしてなんとは駐屯地まで迎えにいき、避難所からみんなで実家に戻った。

その日の夜は灯りがろうそく1本という状況で実家で過ごした。

市外に住む家族とまだ連絡が取れたいなかったので、翌日探しに行くことになった。

とりあえずその日は寝ようということで爆睡した。

翌々日は市外の避難所を回る

日曜日は市外に住む家族を車で探しにまわった。

前日同様に避難所を片っ端回る。

避難所には掲示板が並んでおり、色々な書き込みがあった。

誰々は無事。どこどこにいる。

そんな書き込みをすべて確認しながら、避難所を回った。

すべて回ったが手がかりがない。

携帯に連絡をしてもつながらない。

住んでいた家にダメ元で行ってみると、なんとそこに家族がいた。

運良く津波が家の目の前で止まり、助かっていた。

携帯はただ単につながらなかっただけのよう。

これで一安心。

家族全員の無事が確認できた。

安心して実家に戻った。

ちなみに、緊急時は本当に携帯がつながらない。

今の時代、公衆電話を使うことはあまりありませんが、震災時は公衆電話が唯一の連絡手段だったりする。

公衆電話には行列ができる。

そして携帯よりも公衆電話は繋がりやすい。

非常時に備えて少しは残しておいた方が良いのではないかなと思います。

月曜日は県外に避難

月曜日は仕事を休み、家族みんなで県外へ移動した。

理由はライフラインがすべてなくなり、電気もガスも水道もない状況がいつまで続くかわからなかったからです。

運良く親族の家のライフラインはすべて問題ないとのことで、一度みんなでそちらへ避難することになった。

車のガソリンを震災の前日に満タンにしておいたおかげで、ギリギリ県外へ行って帰ってくるくらいは残っていた。

車にできる限りの物資等を積み込み、県外へ避難。

そこで3日ぶりにお風呂に入れた。

あの時のお風呂の気持ちよさは忘れられない。

暖かいお湯がでるのがこんなにも幸せなことなのかと。

そして暖かいご飯も久々に食べられた。

一気に生き返った瞬間でした。

その日はぐっすり眠れて、まさに爆睡でした。

その翌日に私と父だけ実家に戻りました。

戻る前に米や缶詰を買えるだけ買い込み、持っていなかった自転車も購入。

住む市内の自転車屋さんは自転車が完売状態。

ガソリンが手に入らないのでみんな移動手段として自転車を購入していたようです。

運良く県外のお店に折りたたみ自転車が1台だけ残っていたので即購入。

ハマーの自転車で高過ぎる値段でしたが、今買わないと戻ってからの移動手段がないと思い購入。

実家に戻って翌日から出勤する際、普段車で40分のところを自転車で通勤した。

平時であれば自転車でいくことはないであろう距離をこいで出勤。

相棒であるその自転車は今も活躍中です。

まとめ

震災発生時から数日間を振り返ってみました。

実家に戻ってからも1ヵ月以上ライフラインがない生活が続きました。

あって当然と思ってしまうライフラインも途絶えるとその有り難みを強く感じます。

蛇口から水が出ることは当たり前ではない。

電気で暖を取れるのは当たり前ではない。

東日本大震災は忘れてはいけない、そして忘れられない。

あの日多くの命が失われました。

その傷が癒えることは一生ありません。

   

【編集後記】
確定申告も税務支援も終わり、2月決算の準備に入っています。
2月決算の次は3月決算。
繁忙期は続きます。
体調管理に気を付けて、地道に進めていきたいと思います。

【家族日記】
コロナで習い事がことごとく休みとなっています。
子供たちは我慢の連続ですね。
学校や幼稚園も休校や休園が頻繁にあり、もういい加減いしてくれって気持ちです。
一番我慢しているのは子供たちですね。
早く日常に戻って欲しいなと切に願います。

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